何かにむかついているとき、第三者を理不尽なやりかたでかつ正当にむかつかせる(店員に無理難題を押し付ける。公務員を詰る)ことで、自らのむかつきをしずめる。俗にうさばらし
何かにむかついているとき、さらなるむかつきを自らに課すことで、それまでのむかつきとすり替える。特に自分に対してむかついている他者への行為として有効。俗に他人の悪口
ただしむかつき自体が何かとの釣り合いで軽減したわけでないので、やがてもとのむかつきに話題が帰着する場合も。
smooth with fools, subnotebook of life
何かにむかついているとき、第三者を理不尽なやりかたでかつ正当にむかつかせる(店員に無理難題を押し付ける。公務員を詰る)ことで、自らのむかつきをしずめる。俗にうさばらし
何かにむかついているとき、さらなるむかつきを自らに課すことで、それまでのむかつきとすり替える。特に自分に対してむかついている他者への行為として有効。俗に他人の悪口
ただしむかつき自体が何かとの釣り合いで軽減したわけでないので、やがてもとのむかつきに話題が帰着する場合も。
ルー大柴。人生は一度しかない。悔いを残したくないのでとことんやってみる。
鳥海氏。別にデザインや広告に興味はない。むしろ嫌いだった。文字を目指したのは大学入ってから。会社のゆくすえはあまり考えてない。
かずい工房の井上氏。会社社長にしながら、個人印刷を趣味にし、活字に関する論文を投稿し、活字界に影響。各国の活字、見本帳収集も盛んに。
同期の目標って、部署かわるとかプロジェクトやるとか、コンサルとか、本当偉い。つか本気でいってんのかなあんなこと。だとしたら人種がちがう。仕事で目標なんて。
TBゴシック
http://www.hm.com/jp/hm__working.nhtml
こんなでかでかとのせなくてもいいのよ
東京になりたいときには、ひとを集めて、会社もあつめて、それを常に新しく保ち、そのために工事をさかんに行い、新しい形の建物をたくさんつくり、その一方で古くからの街並みや住人も保護せざるふりしつつ保護し、交通網を発達させ、人が一度は行ってみたい場所をつくり、それを放送局が取材し放映することで放送が成り立つようなイメージをつけ…、いやしかしイメージをつけるためには取材をしてもらわなければいけないな。芸能人を連れてくるか、やらせで仕込むか。
私は何も知らない。私が何も知らないということを除いて。私の発言は全て真実ではない。私の発言が真実かどうかに関する発言を覗いて。
漫画の出演者は、完全な創作、仮想だ。映画もアニメも演劇も、演じる人は現実に生きていて、仕事が終われば自分に戻る。生まれも育ちも死も、誰かと同じようにやってくる。漫画は違う。彼らは現実のものではない、が我々は現実のものと似たものとして受け止める。作者は神。漫画の外で役者が役者の責任においてスキャンダルを起こすこともないし、しかし作者がこれを起こそうと思えさえすれば作者の責任のもとにいくらでも自由に起こすことが許される。だが小説は日記だ。作者か、主人公(それは読み手)の日記で、現実とゆうには完全で亡さ過ぎる。
何を作っても、結局誰かの何かと同じになってしまう。同じかどうか、判断する者によって違うが、判断する者は一人の人間のなかにでさえ無数にいるので、結局は全てのものは何かと同じになってしまう。全く、人間は分類することが生業なのか。全く、誰かが必ず何かと一緒の分野に分類しやがるんた。表面的な分類ができないときは、精神論で分類しやがる。あるいは歴史的側面、要素的解釈で分類しやがる。分類分類分類ぶんるいぶんるい…。私は何かと一緒ということに私が気付くと、魔のサイクルに廃っていく。
なんかこうほかにないことをさ、が口癖の、オメガの腕相撲をして、カフスボタンのついた襟の高いシャツをきた、色黒で痩せ型で単髪の、ああ、いけないいけない。いや、いってやりたいよ、おまえはこのへんに掃き棄てるほどよくいる、ありがちなつまらん人間野郎だあすが!って言われてりしちゃってりなをかして。
寺島薬局(ドラッグストア)
ツヴァイ(結婚仲介)
やまや(輸入食品)
タカキュー(紳士服)
オリジン弁当(弁当)
ホーマック(ホームセンター)
ローラアシュレイ(雑貨)
過去に、ゴナというフォントが世の中からなくなったとき、ほぼすべてが新ゴに流れた。石井ゴシックがなくなったときも、セザンヌに流れた。でもセザンヌではやはりものたりなくて、しかたなく31とかで妥協をしていた。するとこぶりなやニューセザンヌが出てきて、そこにまた流れていった。イシイゴシックに、という人もいたかもしれない。
世の中のゴシックは、そのくらいの小さな世界で成り立っている。いままで何億円かのフォントをいくつつくったかしらないが、そのくらいの小さな世界しかつくれていない。その小さな世界にすら仲間入りできずに消えていく奴もいる。
誰かの後釜になるのではなく、いろいろなゴシックから、自分のところへ流れをつくろうとした筑紫や味岡がなは、ある程度成功はしたかもしれないが、101にはなれなかった。101はトヨタであって、自民党であって、ドコモなのだ。
その時に鳴っている音、その時の少し前までに鳴っていた音の、あいているスペースに音を出す。ただし、あきすべてを埋める必要はない。好みに応じて。それをくりかえす。
スペース1.
音の高さのあき。重低音がないとき、ベースをだす。高音がないとき、ハイハットを叩く。
スペース2.
コードにとってのあき。ルート音、ナインス、セブンスなど。
スペース3.
進行上のあき。盛り上がったか、まだか。そろそろエンディングか。ソロの間に一度テーマをはさむか。バースをやる(聞き手、演じ手)の余裕(スペース)はあるか。
スペース4.
音質のあき。ふわりとした音質か、パーカッシブな音質か。あえてスペースのないところに出してみるもよし。楽器を変えるもよし。エフェクトかけるもよし。
スペース5.
リズムのあき。早いフレーズ、おそいフレーズ。
スペース6.
雰囲気、気分のあき。フリーな気分か、ビバップな気分か、メロディアスな気分か。それをすばやく切り替えてみるもよし。しばらくワンパターンでいって、自分であきをつくり、そこにみずからとびこむもよし。誰かにさきにとびこまれることも。
分単位のスペース、秒単位のスペース、いろいろ。あえてスペースをつくる、あえてスペースのないとこにぶつける、いろいろ。聞き手にとってのスペース、演じ手にとってのスペース、いろいろ。
母親の母性本能は強い。子は10ヶ月を母親の胎内で過ごす。そのため母親は、子を、まるで自分の分身のように感じることがあるのだそうだ。何百の卵を産み、しかも産んだ後に受精をするようなものたちでは、はたしてどのようにこの感情が生まれるのか。いわば我々からみれば、排泄、にも近い行為が、彼女たちにとって、人の出産と同じ、母性を実感するための行為になりうるのか。さらに、何百の子を一度にもうけ、どの卵がいつ孵化したのかの記憶も曖昧で、もはや個々の区別が不可能となったような家族の状態で、人でいうところの育児という行為は、成立するのか。そしてそういう状況の違いこそあれ、彼らなりの社会の秩序が今日まで保たれ続けている(ようにみえる)という事実。
メジャーになって、文化になってしまった。
サブカルチャーでできていたことができなくなった。
世の中を笑い飛ばすことができなくなった。
みんなを喜ばせなければいけなくなった。
「デザインするのがおもしろくてたまらない。http://www.nhk.or.jp/professional-blog/100/7865.html
生理的に、ずーーーっとやっていられるんですよ。
今でも好きで好きで、趣味感覚でやっているところがあるので、
周りの人に叱られちゃうことがあるくらいです(笑)」
中村さんが楽しそうにウェブの説明をしてくださる姿を前に、
「好きこそものの上手なれ」って本当にそうなのだな、と思う。
ウェブデザインの道を本格的に歩み始めて10年も経っていないのに
すでにウェブデザインで世界中から注目を集めている底力は、
きっと、その「好き」から来ているのだ。
中村さんは、大学院まで建築を学び、その後、建築事務所に勤めていたのだが、
仕事を始めてしばらくすると「自分のやりたいこととは違う」と思い始める。
その当時の自分を「ダメサラリーマンだった」と言い切る。
勤務時間以外の時間に生き甲斐を求め始め、
趣味の延長で、もとから好きだったウェブデザインを独自に始める。
その後、一念発起、
サラリーマンを辞め、ウェブデザイナーの道を歩み始めたのだ。
そもそも、学生時代から夢見てきた建築の道をすべて捨てよう、
と思い切ること自体、きっと勇気のいることだったろう。
それに、いくら好きだからといって、
ウェブデザインで必ず成功するという保証もない。
迷いはすごくあったという中村さんだが、
その決断は、ある日突然できたと言う。
「ウェブの世界に趣味レベルで関わりはじめて、
会社が終わったあとや週末に色々作っていたんですけど。
そっちのほうがすごく面白くなって、
だんだん趣味と仕事の重みが逆転してきたんですよね。
なんて言うのかな、
仕事をしている時間、本業の仕事をしている時間がだんだん、
もったいない時間のように思えてくる時期があって。
『あれ、なんで俺、こんな今の仕事をもったいない時間とか
思っているんだろう』と。
今やっていることが本来の自分の時間じゃない気がしてきて、
自分の本能というか、やりたいことにちょっと忠実にやってみようと、
もったいないと思った瞬間に、決断したんですね。
次の日から、そういう方向に向けて動きだしました」