上記の場合は、「楽しいこと」「リアリティがあること」というゴールがあります。しかし、そのゴールをいつも達成することは困難であったり、一見ゴール達成とは両立し得ないようなプロセスがゴールの前に存在することがしばしばあります。
かれらの発見というのは、一見同時には存在し得ないゴールとプロセスの関係性そのものを大きくシフトさせることなのです。つまり、あるプロセスを辿っていくとあるゴールにたどり着くという一方向の関係性ではなくて、"プロセスを辿っている行為そのものをゴールにしてしまった"のです。
smooth with fools, subnotebook of life
2 comments:
面白いね。この人は誰ですか。やっていることが楽しい、ああ楽しみながら作ったんだなーってのが伝わってすごいいい作品はあるんだけど、一方でオメーは楽しいかもしれねーけどよ、わけわからねーよ、オナニー野郎が!という時もある。その分け目っていうのはただただ相性なのか、なんなのか。完成していない未分化なところでおもしろく感じるにはその楽しみ方自体に奥行きがあったり、驚きがなければいけない。
絵をつくろうとしているんだけどパフォーマンスが作品になる。パッケージ化されたエロい録音や面白い番組をつくろうとしているんだけどパフォーマンスになっている。それでも、ただ面白い過程が堆積し、ただ楽しみながらやっているパフォーマンスが連続しただけではすごくいい作品にはならないと思うんだけどこれはいかに。
コノ人はよく知らない…。アカシヤさんまについて調べていたらでてきたのです。
オナニーをみせるにしても、見る側にとって見たいオナニーかどうか、というのを常に意識しながらオナニーをするのが重要でつね。
未完成なものでも、見て楽しめるようなものである場合、多くは、作者の人となりがすでに知られていたり(他の完成形の作品などがすでに世の中に受け入れられている)、あるいは未完成なものから完成形までつくり終えた経験をみんながすでにしていたり、という、条件があると思ふ。
奥田たみおがひとりカンタービレという、ひとりでライブ会場で楽器をたくさん演奏して多重録音し、曲をつくるというライブをやっていたけれど、それは二つの条件を満たしていると思ふ。
楽しませるためにはその裏に苦しみ(つらい日々)がないとやはりバランスが取れないのではないかな、と。快楽・苦労保存の法則を提唱している者としては。
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