でも元々はあちら側でしたもんねみんな。どうってこたないか。むしろあちらの人が愕然として…。ずいぶんガチッと作風が決まってたから、急に反転するとどうも危なっかしいというか落ち着かないというか。
なんだかすっからかんになってしまった…。矢継ぎ早に思ったそばからクリック、タイプすると、それで終わった気になるな…。物が多いと逆に自分に多くが残らない、というか、情報酔いしマス貧乏になるでな。
はやく冬にならぬものか。待っているぞタンスで巻物が。
smooth with fools, subnotebook of life
でも元々はあちら側でしたもんねみんな。どうってこたないか。むしろあちらの人が愕然として…。ずいぶんガチッと作風が決まってたから、急に反転するとどうも危なっかしいというか落ち着かないというか。
なんだかすっからかんになってしまった…。矢継ぎ早に思ったそばからクリック、タイプすると、それで終わった気になるな…。物が多いと逆に自分に多くが残らない、というか、情報酔いしマス貧乏になるでな。
はやく冬にならぬものか。待っているぞタンスで巻物が。
11回の交換で分かった(経験した)外装等の不具合。
�背面ポリカーボネイトの塗装粒。
�背面ポリカーボネイトの目視で判別できない物〜目視で明らかにわかる物までのヒビ割れ。
(特に銀枠との合わせ目や金属部分との合わせ目に発生。イヤフォンジャックを1度差しただけでヒビ割れる事も。
�背面ポリカーボネイトに小さなへこみ〜大きなへこみなどが何ヶ所かある。
�正面銀枠とタッチパネルの間からの液晶の光漏れ。
(部屋の電気を真っ暗するとその隙間から光が漏れるのがわかる)
�正面銀枠とタッチパネルの間からの液晶の光漏れはその間に付いているゴムパッキンみたいなのがしっかりついていない。
(その様な端末だと隙間からタッチパネル内側にゴミが浸入してとれなくなる。また内部基盤にも汗や水分が浸入)
�銀枠と背面ポリカーボネイトの合わせ目に指で多少引っかかる程度〜2ミリぐらいまでの段差がある。
�タッチパネルに髪の毛やゴミが製造段階から混入している。
�タッチパネルに16Gや8G関係なく個体差があり、明らかに明るさが全く違う。
(以前問題のあったファームウエアの更新での液晶の黄ばみの解消とはまた別の問題)
�銀色のマナーボタンは接着剤で中のプラ部分に付けられているのですぐに取れやすい。
�端末のドックコネクタが中で歪んでいるためUSBのコネクタが真っ直ぐじゃない。
�カメラ内部に製造段階からゴミ混入。キズなども。
�SIMトレーの差込穴が適当な作りで穴が端の方にズレている物がある。
�スリープボタンがグラグラ動く端末がある。
�マナーボタンがかなり固い、または緩い。
その人に興味が持てるかどうか、その人についていろいろと想像できるかどうか。
そのためには、その人に関する情報が不完全でないといけない。また、不完全だが、完全な状態がうっすらと予感できる程度の情報で、見聞きする側が彼に好奇心を持てるようになっている方がよい。
その人に対する知識を自分で集め、もしくは想像し、勝手に補完するという動作で、彼に感情移入するようになる。
現代美術、映画、音楽、小説、キャラクター…と金を稼ぐ芸術はみんな結局そのモチベーションの上に成り立っている。作家に感情移入するか、登場人物に感情移入するか、俳優に感情移入するか、違いはあれど、結局同じこと。自分の中で誰かを考えている時間の長さ。
* * *
僕は以前、同監督の前作、「ゆれる」を大絶賛した。
どうしてもそれと比較してしまう。
●演技
前作のよさは(というかたいていの映画のよさのひとつは)、
「とてもやりきれない感じと、その後の救われる感じ」だと思う。
ゆれるはさらに、主演俳優の1人の演技が狂っていたので、
より、やりきれなさ、救われた感が強かったのだと思う。
見ていてゾッとする演技、というのを、演技がうまいというのかどうか分からないが、
ゆれるでの演技は、見ていてゾッとする演技だった。
あーこういう人間、こういうしぐさは見たくない!というのがわんさか出てくる。
表情や動きで、見ている人の心拍数を上げるというのは、
やはり並大抵のことではないのだろうと思う。
それは脚本と演出によって発生したものでもあるので、
一概に演者だけが良かったということでもないだろうが、
しかしあの演技なしには成立しないだろうと思う。
と、いうのと、今作を、どうしても比較してしまう。
今作には、そのゾッとする演技もないし、
「やりきれない感じ、救われる感じ」も、薄い。
テレビドラマや、テレビ局制作の映画などに比べたら、
脚本も演出も演技も全然種類が違って、
ある程度楽しめるものではあると思う。
それは、監督のおかげだと思う。
しかし、見ていて心拍数は上がらず(ストーリー的に、ということではない。
まあストーリー的にも少し山谷がない気もあるが)、
前作以上をどうしても期待してしまった僕には、
なんだか物足りなかった。
唯一、今作にも出ている例の役者が刑事二人と喫茶店で渡り合うシーンで、
例の狂った演技。それがよかった。
あれは、それだけを何度も見たい、と思うような、中毒性のある演技だと思う。
(どうやったらああできるのか・・。やはり遺伝子によるものなのか。
全身全霊を傾ける、という。なんだか、
熱心なパンク演奏者が全身で演奏しているようなのにも近いし、
憑依したイタコにも近い。)
映画で、監督に出来ることには限りがある。
いくら演出をしても、結局演じるのは役者。
全部を統制しようとするなら、小説かマンガにするしかない。アニメも自分ひとりでは作れない。
しかし、全部をひとりでやったとしても、ゆれるは作れなかっただろうと思う。
主役を別の役者にした時点で、
ゆれるを超えるもの(同程度のもの)は作れない、ということを、
僕は理解しなければいけないのだと思う。
●脚本
彼女は、今作で、
「前作を公開した後、自分には大した中身がないにもかかわらず、周り(世の中)が何故か自分を持ち上げる現象」を
映画にしたかったそうだ。
彼女は主役の医者で、世の中は医者がいる村の住民だそうだ。
「周りが考える自分」が、「自分が考える自分」を追い越していき、
追いつけなくなってしまった時の(特に有名人が感じる)空虚な感じは、確かに、今作で描かれてはいた。
ただ、それは、前作の
<
「親の世話を自分だけがして、でも弟は東京で自由に遊んで暮らしていることへの苛立ち」
+「とても好きな女性に嫌われてしまってどうすればいいかわからない」
+「でも自分はそんな状況に絶え、ずっとやってきた、という自負がある」
+「なのに弟のせいで全部めちゃくちゃに、しまいにゃ刑務所に入れられることに」
という、全編で描かれる最低最悪の兄の心理状況と、
ラストシーンでほんの一瞬だけ出る、救われる感じのシーン
>
には、
見る人が感情移入できるかどうか、
見終わった後に深く考えさせられるかどうか、
主人公に幸せになって欲しいと願えるかどうか、などの面で到底かなわないと思う。
まあ要するに話がたいしたことないのだと思う。
今の世の中で有名人になる、ということは、
とてもたくさんのリスクがあり、我慢しなければいけないことが随分多い。
それが分かったところで、私の暮らしには何も影響しないのだ。
彼女の描こうとする、「善と悪の境目がはっきりしない、人間というもの」を2時間の話にする時に、
合っている設定と、そうでないものがあるのだと思う。
●次回作は
見る側は気楽だ。
いくらかを払って、映画を見て、よいか悪いか勝手に批評して、
また作れ、と言う。
受身の癖に、文句言い。まあ金を払っているんだからしょうがない。
資本主義では金を稼ぐのに散々ストレスがたまるようになっている。
有名になればなるほど、ストレスがたまる。
このまま、「善と悪の境目がはっきりしない、人間というもの」を、
ややわざとらしめの映像(僕は大好きだが。溶けるアイスクリームの10秒の映像とか、
ボケた老人が新聞紙を洗濯して干している映像とか。)で、
言葉少なめに演出して、という手法をずっと続けていくのだろうか。
僕は続けていって欲しい。三谷幸喜みたいに。
出資する(金だけ出して、勝手なこという)輩の言うことを聞いて、
その個性をなくしてしまうのはやめてほしい。
少なくとも、その個性についている客が、僕も含めて大勢いると思う。
「同じことを2度とできない」という、エンターテイメント界の癌思考にとらわれず、
同じことでもなんでも、作りたいと思ったものをお願いします。
自主制作的といわれようがパクリといわれようが、
本人が自身を持っていればいいと思います。
たとえもうゆれるを超えられなくても、ゆれるはなくならないので、
別にいい。
ゆれる的なものをまた見せてもらえるだけで、充分受け手として幸せだと思う。
たいていの人は、つまらん、という。
連続ドラマと違って、話がすすまないのだ、という。しかしそれは好みの問題だ。
僕には連続ドラマの方がむしろつまらん。
映画とドラマという時点で単純に比較をするものでもないと思うが、
しかし同じ映像作品としてみて、こうも違うか、というほど映像文法が違う。
連続ドラマ、まあテレビ全般に言えることだと思うけど、
とにかくほぼすべての演出が丁寧・わかりやすい・台詞とテロップが多い・説明口調、と至れり尽くせりだ。
過保護といえば過保護、視聴者を置き去りにしないという言い方もあるだろう。
まあその点はすでにいろいろなところでいわれていて、テレビの宿命的な、仕方のない流れだとは思うが、
ただ親切なだけ、ならまだよいのだ。
最近のは、親切を追及するがあまり、つじつまの合わない・リアリティのない演出まで多用する・・。
フィクションとは言え、生身の人間が演じているドラマで、アニメのような演出をするのはいかがなものか。
CGを使えばなんでもできる、ということはないぞ。確かにお金と時間をかければ「ある程度」はできる。しかしそれでも現実には及ばぬ。
そもそもCGは現実にできないことを具現化するのには優れているが、現実にできることを再現するのには優れていない。
CGだけではない、さまざまなその矛盾を、さも当たり前のように受け止めて話を進める役者陣、制作陣、スポンサー陣・・。
こんなのありえない、でも演技はシリアス。いやにならないだろうか。
サスペンス、恋愛、ドキュメンタリーまで矛盾だらけ。作者の下手な嘘だらけ。
そんなに都合よく、特定企業の飲料だけが個人宅の飲み会の席に、しかもラベルが一方向を向いて並ぶことはないのだ。
(それを見た人間が、ああここのこれが飲みたい、と思うか、また下世話な、と思うか。
ドリンクが並んでいる、と思われるか、並べられている、と思われるか。並べられている、と思われた場合、その理由をどう想像させれば効果的か。
そこまで可能性を考えてつくろうとはしないのだ)
僕はそれを静かに受け入れられない。そこまでひっくるめて楽しむ余裕がない。そんなに親切にはなれない。
それでお金をとっているんだろう、そういう作品で給料をもらっているんだろう、プライドや自信はないのか?
大手テレビ局制作の映画を数本みて、たて続けに興ざめだったので、そうでない制作者には申し訳ないと思いつつ、
もうテレビは全員がそうだろうというネガティブスパイラルに入っている。
見る人が、断片的な情報をもとに・説明なしの映像から想像して頭の中で描いたストーリーなりバックグラウンドなり心理状態の方が、
わざわざだれかに親切に説明されてなんとなく理解したものよりも、ずいぶんリアリティがあり、記憶にも残り、感動もする。
察する・自分で考える、ということがどれだけ重要か・・。
すくなくとも誰かの作品を見聞きしていて、
見た人が自然とそういう行為に及べないような場合は、その作品は僕にとってすぐれているとはいえない。
リアリティのない情報ばかりだと、そもそも考えようという気にすらならない。
つい変な意図を察してしまう。
そのリアリティのなさに意味があれば別だが、ないだろう、ただの横着だ。
時間がない、予算がない、やる気がない。やっつけ仕事。
大きな声の台詞で説明せず、小声や表情や動きで説明する。
わかるかわからないか、ぎりぎりのところまで情報を少なくする。
伝えたい情報と、そうでない情報をまぜて伝える。
たしかにわかりづらい作品というのも多い。それはそれで理解できない・受け入れられないということは多々ある。
ただ、「おもしろさ」の一つは、
すぐには意味がわからず、自分で察しようという気にさせておいて、なおかつ意外にすんなりと答えがわかるようなこと、なのでは。
わかる/わからないは人により違うので(わかる人の方がよい・優れている、という風潮もあるがそうではないと思う、単に人により好みがある、というだけのこと)、
作品(作者)の度合いと、こちらの度合いが一致すればするほど、いい映画、ということになる。
茶の味もそうだが、ゆれるも僕の中ではいい映画だった。
40にもなって、いけいけなままの気持ちで、私・輝いてる!いつまでも若くいたいわ・めげちゃだめ・そりゃつらいことだってあるけど・いつでも前向いて・気持ちよく生きていこ!って大バカ野郎が。それをでかでかと顔に書くなよ。車内で日経を開けっ広げに読み、もてない女流作家の男性こきおろしド変態偏愛エッセイをこれまた開けっ広げに。
比べるのも蹟に障るが、まあどうせ社会経験では敵わん。そのカラ元気にも勝てる気がしない。なので負け惜しみだろう、自分にないものへの逆説憧だろう、彼女にだって立派な人生が、とでも。なんと言われようが構わん。否定はするが、まあ価値観の問題なのでこれは個人的なことなのだ理解されなくとも仕方がない。
不良品が多数発生すれば、その原因がキヤノンの用意した部材の品質にあるのか、それとも請負側の使い方にあるのか、両者の間で責任の所在を問う交渉が行われる。請負側が過失を認めれば、不良在庫の費用を負う立場となるために、グレー不良は市場に出回ってしまうのだ。
炭水化物にもいろいろありますが、なかでももっともオススメなのが白いごはん。お米は日本人が昔から食べている主食なだけあって、日本人の体に適した優秀食品。消化がよくて栄養も吸収しやすいのです。そのため、白いごはんで野菜を食べれば代謝がスムーズになり、遅めの夕食でも太ったりする心配がありません。
改正薬事法の検討会に参加後、インターネットでの薬販売規制の動きに関してのコメント
その構造を劇的に変えることは不可能ですから、少しずつ少しずつ変えようとしたら、随分長い年月がかかります。少しずつ変えていっても、現代の文明の終焉までに滑り込みセーフになるのかどうか、私はあまり自信がありません。ただ個人的には、自分と自分の周辺に関しては最大限の努力をしていくつもりです。
人を楽しませるために自分たちの職業で精いっぱい力を尽くすのではなく、それもやるけれど、ほとんどの時間は他人が作ったものを消費することによって楽しもうと思って生きていますね。
それは僕のような年寄りから見ると、非常に不遜なことであるという風に、真面目に作れという風に、力を込めて作れという風に(感じ)、「すべてのものをそこ(作品)に注ぎ込め」と怒り狂っているわけです。だから全体的なモチベーションの低下がこの社会を覆っているんだと思います。
——麻生首相がアニメ・漫画好きと公言されていますが、これをどうお考えになっていますか?
恥ずかしいことだと思います。それはこっそりやればいいことです。
ウォルト・ディズニーとウォルトナインズとの関係は、あの時代にしかありえなかったような非常に濃密な幸せな関係だったと思います。私たちは私たちなりに(そうした幸せな関係を)持っていますが、比較することはできません。1930年代にアニメーションを確立したという彼らの誇りと、それを使って商売をやってきたその後の人間たちとではずいぶん違うんだということです。
私たちは外部依存をしたくない。労働条件の差を利用して映画を作りたいとは思いませんので、何とかして自分たちのリスクで映画を作っていきたいと思っています。
もうすでに引退しているのだと私は思ってます。「みんなの好意で時々仕事をやらせてもらってるんだと思った方がいいな」と思って生きています。
ただ、映画を作るというのは非常にリスクのあることです。むしろリスクを求めて私たちは映画を作っていますので、映画を作り終わるころには本当に力を出し切っています。だから、もう何にもやりたくないのです。「何もできないだろう」と自分で思えるのですね。それで、毎回ああいうこと(「引退する」)を言っていましたが、もうさんざん言いすぎましたので言わないことにしています。
「商業的に成功することは、大して意味がないんだ」と本当は思っています。仕事を続けるために一定の商業的な成果を上げなければなりませんが、それは目的ではありません。
「いったいどこに止まれば良かったのか」というのは、これはずいぶん探しましたが、結局「楽園というものは自分の幼年時代にしかない、幼年時代の記憶の中にだけあるんだ」ということが分かりました。親の庇護(ひご)を受け、多くの問題を知らないわずか数年の間だけれども、その時期だけが楽園になると思うようになるのではないでしょうか。