7日に事務所の壁に赤いスプレーで「死刑」などの落書きが発見され、被害届を出していたことが報道された。
「別に大変じゃないですよ。きれいに塗り直しましたから」
「その話つまんないからやめません?」
「TV見てる人は興味はあるんだろうけど、つまんないもん」
「口角を下げる話はやめたほうがいいもん。笑う門には福来たるっていうし」
smooth with fools, subnotebook of life
7日に事務所の壁に赤いスプレーで「死刑」などの落書きが発見され、被害届を出していたことが報道された。
「別に大変じゃないですよ。きれいに塗り直しましたから」
「その話つまんないからやめません?」
「TV見てる人は興味はあるんだろうけど、つまんないもん」
「口角を下げる話はやめたほうがいいもん。笑う門には福来たるっていうし」
たとえば、コロッケにもタイムラインがあります。サクッときてその後ホクホクする食感や、ガツンとくるソースと油のうま味からの中和する芋の安心感、包み紙を通してじんわりと伝わる熱さ、衣と包み紙の擦れるガサガサした音、などの複合タイムラインですよね。フォーマットとしては静的な絵画も、最初にここを見て、次にあちらを見るだろう、あるいは近づいたり離れて見たくなる、という、視点の誘導に時間軸があるということが絵画の要件になってくる。
メディアをやってて思うのは、当たり前だけど、あらゆる記事ってユニークなものとしてしかないわけ。同じ記事って二度と出ないの。稀に出たとしてもコンテキストが変わったから出るわけだし。だから、ある記事を分析してそれが読まれた要因を因数分解していっても、じゃあ次の記事をつくるのにそれが役に立つかって言ったらそうでもないんだよね。
―ふーん。そういうもんなんすかね。
それに、これ、そもそも考え方自体に矛盾があるんだよ。だってそうじゃん。「何一つ再現されない」っていう前提のなかで動いているものから再現性を取り出そうって、そのこと自体になんの意味もないんだもん。そりゃ探せば何かは出てくるかもしんないよ。でも、それがわかったところで次にやることといえば、「じゃあ、それとは違うことやろうぜ」ってことでしかないから。
―ひねくれてんなあ(笑)。
ちがうんだよ。むしろそれがヒトの本質なんだ、ってさっき挙げた本は言ってるわけ。デザインの起源は「違うもの」とか「無用なもの」をつくるところにあるって。人間を突き動かしてきたのは「機能」の追究なんかじゃないんだよ。道具というものの起源として、よく石を涙のかたちに削りだした「手斧」がよく参照されるけど、あれに関して重要なのは、「それが使われた形跡がない」ってことなんだよ。で、本のなかにマーシャル・マクルーハンの引用があるんだけど、それがめちゃくちゃいいの。
―ほお。
「機能するということは時代遅れであるということである」。よくない?
――先ほど「受け取る側も想像力が求められている」と。いくつもの厄介ごとを乗り越えるために、どうしたら想像力を高めてもらえますか。
それがわかれば俺、もっと売れてるんですよ(笑)。常にテッパン、爆笑をとれる芸人になっている。だからそれは本当に、俺にとっても課題だし。みんなが共感できるものを発信したいわけですから、我々は。
「公式クライアント作者のLoren Brichter、Twitterを退社して次のステップへ」
'Tweetie' Developer Loren Brichter's Next Project is an iOS Game・ローディングアイコン、メッセージの出方などかなり独特。
The hard part is finding really comprehensive word lists for all these other languages.
浜田雅功:松本さんどうなんですか
松本人志:これはね、あの~昔あったでしょ『ポケットミュージカルス』って、われわれの頃ね
浜田:花月のね
松本:ネタがあって、その後新喜劇の間にね。前にまだ『ポケットミュージカルス』って軽い歌ありなんやらみたいな、歌あり笑いありのようなね、そういうの 何かやってみようかっていうね。えぇ、われわれ、ちょっと考えております。本当にどのくらいのお金があるのかも分からないですけれども、ぜひ本当にいろんな人に観てもらって・・・
浜田:いやいやいや、それ何のお金の話をしてるの
松本:いや、本当にすごい稼働率ですからこれ
浜田:はいはいはい
松本:これ、どうすんのかなぁって思って。ねぇ、だからそのいろんなタレントさん連れて大阪まで行って
浜田:声がちっちゃいなぁ
松本:ねぇ、本当に大変ですよ
浜田:そこはまぁ会社が考えるでしょ。それはあんだけ出すんやから
松本:ねぇ、まぁ、そんなんですよ
浜田:そんなんで頑張ります
2画目が1画目を突き出るかどうか、が異なる。また、1画目のふところの広さ(カーブの大きさ)も異なっている。
1画目と2画目がつながっているかどうか、が異なる。
1画目と2画目の間隔が異なる。また、横画の起筆部のエレメントが異なっている。
「、」は、何となく形が異なる。本明朝は丸っこい形。MS明朝は直線的な形。
また来月も、それから年末も、さらに来年の前半にも、
それぞれ結婚式があることが既に決まっている。
そういう年齢にさしかかっているということなのか、今年はいつになく多い。
すでに二式さらに三式ごうけい五式に及ぶ可能性がある。
今日家に帰ってくると、ネットで購入したCDアルバムが届いていた。
あるネットショップで買うと、作者本人が直筆で、購入者のフルネームをジャケットにサインしてくれる、ということで、ショップからは「もしかすると発送が随分遅くなるかもしれません」と言われていた。
なので、気長に待つつもりだったのだが、意外に早く届いた。注文が少なかったのか。
もともと、買うつもりではなかったのだ。
サインしてくれることも知っていたけれど、買おうとまでは思っていなかった。
(図書館で借りようと思っていた)
しかし、雑誌のインタビューで作者が「これが成功したら、2枚目を出せる」と言っていたのを読んで、
買うことにした。投票のようなもの、だ。
・ストレートに高らかにモノを言うよりは、笑いとともに伝えたほうがメッセージに対する拒否反応がマイルドになり、受容性が上がるだろうという考えがあります。
・「声高に正論を叫ばれると心理的なバリアができてしまう」という点は、全てのコミュニケーションに、つまり、夫婦げんかにも広告にも共通する原則であると思います。
・組織の上に行けば行くほど、自社を礼賛するようなモードが強まるので、広告は承認プロセスを通過していく間に、どんどん正攻法・演説調になっていく傾向があるのではないかと思います。
(一部改変)
切られてしまう垣根がかわいそうということでは決してなく、かといって、あのように切っても切っても伸びてくる枝のことが憎いという訳でもない。まあ、正直に言ってぼくは、垣根に対して特別な感情を抱いてはいない。
垣根の前を通るたびに思う。ああ、伸びてるな、切らなきゃな。いつ切ろうかな、週末かな。と。こうして、ぼくたちは、いくつの週末を超えてきたのだろうか。
週末はいくつあってもありすぎることはない。無限にあってよい。そう言う人がこの世には多い。ぼくもそう思う人間のひとりだ。
週明けはなければない方がいい、という人もいるが、ぼくはそうは思わない。特にこれといった理由はないが、週明けは週明けで新鮮な感じがして、あってもよいのではないかと、思う。
いま、議会では、週明けと週末の需給バランスの規制に関する新しい法案が通過する見込みとのことで、メディアはいろめきたっている。国際社会における週末不足問題は、これまでさまざまな分野で、いろいろな専門家たちによって盛んに議論されてきたけれど、いまだ具体的な対応策の実施に踏み切ったという事例はない。ましてや国家レベルでの週末取引への介入など。さらに、それが週末不足に悩む先進国主導の動きともなれば。
ぼくが垣根に言われたのは、きみは、週末、僕を切るよりも、ほかにやることがあるんじゃないの?ということだったように思う。なのだけど、それが発端となって、こんな、カレンダーを塗り替えるくらいのおおごとに、ぼくが巻き込まれてしまうとは、その時、思いもしなかった。
垣根は、ぼくがなかなか切らないのをいいことに、いまこの瞬間も伸び続けている。来週か再来週には(あるいは、どんなにおそくとも再々来週には)とうとう、彼も切られてしまうということを、彼はまだ、聞かされていないのだ。
「勝手にレビュー」という、気に入ったCDや本について、勝手に書くというのを、
以前、WEB上でやって(公開して)いて、これからもやっていこうと思っているが、
それに載せてもいいくらいだ。
なぜそちらに載せないかというと、今日は眠いからだ。
そちらに載せるためにはいろいろと準備が必要であり、時間がかかる。推敲もしなければいけない。のだが、今日は眠い。
なら眠くないときにやればいいでしょう?ええ。そうなんですが、でも、今書きたいんです。
朝、車に乗っているときに、
普段は聞かないラジオをたまたまつけていたら、
普段と違うパーソナリティーが、それは流暢な英語で紹介していたのが、そのCDです。
それはもう流暢な英語で紹介していました。
しかも、ところどころ、ネイティブ発音ではわれわれ日本人にはわからないだろうという単語を、わざわざカタカナ発音で言い換えてくれたりして、
それはもう親切なパーソナリティーだなぁコノ人は、なんて思ったりしていました。
※残念ながら、彼は、普段のパーソナリティーがお休みのため、
臨時のピンチヒッターとしてパーソナリティをつとめていただけのようで、
もう来週からは登場しません。
なのでまた僕は普段どおりラジオを朝聴かなくなります。
そのピンチヒッターによる紹介もよかったのではあるけれど、それ以上に、CDの中身がよかった。
ちょうどいいところで車を降りなければいけなくなってしまった僕は、
車を降りてからも、iPhoneのアプリを立ち上げて、ネットラジオでその曲を聴き続けました。
曲が終わって、早速、アマゾンで、買おうかな、と思い、iPhoneの、アプリを立ち上げて、
検索してみたら、特に安くもなっていやしない。
でも、安くなっていなくたって、買おう、と、思うくらい、よかったんです。
なので、すぐに注文しようかな、と、思ったのですが、いや、まてよ、と。
今日、お昼にCD屋に行って、CD屋にあれば、買おう。そうすれば、帰りの電車で聴けるやないか!
もう、CDが届くまでの時間がもどかしいとおもうくらい、よかったんです。
なので、アマゾンでは注文しませんでした。
(しかし結局その日は仕事が忙しくてCD屋にはいけず、
翌々日になってようやくCD屋にいくことができたので、
ここでアマゾンの注文ボタンをおしておけば、そっちの方が早く手元に届いたわけなのですが、
それでも、アマゾンで注文しなかったことについて、後悔をしたりはしていないです。
なぜなら、僕は、翌々日、CDを買ったその足で、昼ごはんを食べるため、CD屋の近くの、
いまだかつて入ったことのない定食屋に入店したのですが、
その店がこれまたいいお店で、魚もとても美味しく・リーズナブルで・清潔・分煙、
かつ、メニューの字がとても好みの感じであったし、
おまけに僕の手持ちの現金が30円しかなかったせいで
やむを得ず利用することになった昼飯時のクレジットカードについても、
嫌な顔ひとつ見せず対応してくれた店員さんがその店にはいたのです。)
定食屋で、待ちきれずにCDをあけ、ライナーノーツを読んだのですが、
そのライナーノーツにも、いいことがたくさんかいてありました。
まだ、そのCDの情報はネット上にとても少なくて、参考にできるサイトなどもあまりないようなのですが、
ライナーノーツのおかげで、いろいろと、分かることができて、またよかった。
たとえば、2人いるプロデューサーは、それぞれもともと楽器は何をやっているのか、とか、
本人は、どういう大学を出ているのか、とか、何を学んできたのか、とか。
それらの情報が、また、「そりゃCDもいいに決まってるわ」と思えるようなものだったので、さらに、よかった。
話はここで終わり。
何が言いたいのか、よく分からなかったかもしれないが、
すいません、それでもいいや。今、書きたいことは、すべてかけたので。
あと、もし興味をもった人が、このCDを視聴するときは、
恐らく、モニターのスピーカー/イヤホンではなくて、
ステレオのスピーカーか、ヘッドホンで視聴した方が、いいと思います。
今、貼り付けようと思った視聴リンクを、ためしに聴いてみたけれど、全然、よくない。
上記の場合は、「楽しいこと」「リアリティがあること」というゴールがあります。しかし、そのゴールをいつも達成することは困難であったり、一見ゴール達成とは両立し得ないようなプロセスがゴールの前に存在することがしばしばあります。
かれらの発見というのは、一見同時には存在し得ないゴールとプロセスの関係性そのものを大きくシフトさせることなのです。つまり、あるプロセスを辿っていくとあるゴールにたどり着くという一方向の関係性ではなくて、"プロセスを辿っている行為そのものをゴールにしてしまった"のです。
死んだあとの世界と死ぬまえの世界はほとんど同じで、それに気がつかなければ死んでも何も変わらない、でも死んだ人が、その違いに気づくと、もう元には戻れなくなる。う…
熱海の捜査官、というドラマに関して、どういう話だったのかは、まとめサイトなどを見ればいいと思うが、いろいろと考え出すと、怖くて眠れない。熱海にはしばらく行けない。
正確に言うと、殺したかどうかはわからない。ティッシュで掴んで、軽く丸めて、ちょっと強めに握って、ゴミ箱にポイ、だ。ティッシュを開いて状態を確認した訳ではないので、もしかするとまだ生きていて、夜の間にティッシュの中から出てくるかもしれない、が、怖いのでそういう想像はしない。
とにかく、部屋の隅に置いてある藤のゴミ箱には、丸まったティッシュが山ほど入っている。ゴミ箱の周りにも、投げて、外れたティッシュ玉がいくつか転がっている。
温泉に来ている。ひとり。福島の山奥の、むかーしからあるというふるーい温泉宿の、旧館。本館は満室だった。どうもここは秘境温泉宿ということで知られているらしい。
八帖の和室に、机と座布団と、木製の鏡台と、衣紋掛け。あと三菱の扇風機とパナソニックの14インチ位のブラウン管テレビ。
温泉は三カ所。部屋の障子を開けて廊下に
…まただ。
二匹ヤった羽根アリだと思う。木の柱の中にたくさん住みついているのだろうか。
温泉は三カ所。部屋の障子を開けて廊下に出て、少し行って、階段を降りてまた少し行くとひとつ。
そこから100
…今度はでかい。ポトって畳に落ちて来た。なんだよ、なんなんだよ。何ムシだよ。泣きたいよ。飛ぶし。
ティッシュで潰すのは無理だと判断して空き缶の中に閉じ込めた。カタコトいっている…。しかし私にはこれ以上どうすることもできません。デカい虫ごめん。
そこから100段くらいの木の階段を下って行くと、ふたつめ。
ドアから外に出て、鉄の階段を降り、石の階段を降りると、みっつめ。これは露天風呂。
ちなみに、婦人風呂がさらにもう二つあるらしい。先の三つの風呂は、男湯という訳ではないのだそうだが、実質男湯だ。風呂についてはまた別途書こう。今は虫の話だ。
100万種類の虫が、多分100万匹ずつ生息している。僕はその中で寝なければいけない。ひとりで。信じられない。いや、嫌だという訳ではない。覚悟はしていたんだが、やはり怖い。
節足動物は人間にとって脅威だ。彼らは僕らとは全く違う進化をこれまで遂げてきていて、完全に独自だ。僕らとは言葉も違えば考え方も違う。何をするかわからない。お互い異質な存在で、相入れない関係なのだ。しかし、今日は彼らとともに寝なければいけない。まだ見知らぬ外国人のほうが、いや、まあ同じくらいかもしれないが。
さっき、二つ目の風呂に入ろうかとおもって、木の階段を降りようとしたら、まあ大変。暗い階段の天井から下がっている裸電球に蛾がたくさん。パタパタ、パタパタ。そして階段の床には、なぜか死にそうになってる蛾がまたたくさん、床の上でパタパタ、パタパタ。
あーもうだめ、無理ですごめんなさい、と誰にとでもなく謝りつつ引き返して、一つ目の風呂に入ってきたのです。こんなことなら虫がいない時期に来るんだったよ。
なお、仏教の教えによれば、たとえ節足動物であっても、殺生をした場合は必ず懺悔をしなければいけないのだそうだ。そうしないと地獄へ落ちてしまう、とのこと。皆さんもお気をつけくださいませ。今日は懺悔してもう寝ますおやすみなさいごめんなさい。
どうやらiPhoneから投稿しても余計な改行がされないことがわかったので、思う存分にノン改行できる。素晴らしいことだ。人はときに素晴らしいはずのことを当たり前と感じてしまう癖があるが、そういうことはなるべく避けたい。
先週の土曜日に入院して、今日でまる一週間。ちょうど7日前の今くらいの時間にベッドインした。5歳くらいで退院してから、とても久しぶりの入院。同じ病院というわけでもないので、懐かしいとかはないのだが、とおもっていたのだが、あったのだ。懐かしいことがあったのだ。
入院したその日から3日間、ぼくは一日二本の点滴を打った。初日に、その点滴の針を腕に刺したのだが、そのとき、あっ!と脳が反応したのだ。
僕はそもそも注射が大嫌いだ。自分の体から血が出ること全般がダメだ。それを直視できない。だから点滴の針を刺すときも目をつぶって横を向いていた。で、針が肘と手首の間の表側の皮膚に入って行く時、どうやら腕は覚えていたらしい。針が血管に入って行く時の違和感に、おかえり、と腕が言うのが聞こえた。針は無言だった。
点滴をしていて怖かったのは、空気が点滴のチューブを伝って血管に入って行くこと。少量なら人体に影響はないと言われているとのことだが、精神的によろしいものではない。
それから、夜になると点滴のチューブを外し(チューブは外すが針は外さない)、針部分に血が固まらないようにする薬を注入する。そのとき、おい看護師そんなに勢いよく薬剤を注入したら体内の血圧が急激に増加しておれはどうにかなってしまうんじゃないかと毎回不安になる。
さらに、点滴をしていない状態だと、針から血液が逆流して体外のチューブに流れ出す。その、体外に流れ出て時間が経った血液は、次回点滴時に体内へ強制的に戻すのだが、それが痛んだりしていないのかどうか毎回不安になる。
月曜、生検をとった。肋骨のあたりに局所麻酔をして、体内に針を刺し、内臓の組織を少量直接取り出すというアレです。これについてはもう考えたくない。恐怖で死ぬかとおもった。死ななかったのでよかった。
とにかく健康は奇跡だ。健康になったら、健康は奇跡だと言うことをみんなに伝える人になろうかと今は思っておる。