でも元々はあちら側でしたもんねみんな。どうってこたないか。むしろあちらの人が愕然として…。ずいぶんガチッと作風が決まってたから、急に反転するとどうも危なっかしいというか落ち着かないというか。
なんだかすっからかんになってしまった…。矢継ぎ早に思ったそばからクリック、タイプすると、それで終わった気になるな…。物が多いと逆に自分に多くが残らない、というか、情報酔いしマス貧乏になるでな。
はやく冬にならぬものか。待っているぞタンスで巻物が。
smooth with fools, subnotebook of life
でも元々はあちら側でしたもんねみんな。どうってこたないか。むしろあちらの人が愕然として…。ずいぶんガチッと作風が決まってたから、急に反転するとどうも危なっかしいというか落ち着かないというか。
なんだかすっからかんになってしまった…。矢継ぎ早に思ったそばからクリック、タイプすると、それで終わった気になるな…。物が多いと逆に自分に多くが残らない、というか、情報酔いしマス貧乏になるでな。
はやく冬にならぬものか。待っているぞタンスで巻物が。
11回の交換で分かった(経験した)外装等の不具合。
�背面ポリカーボネイトの塗装粒。
�背面ポリカーボネイトの目視で判別できない物〜目視で明らかにわかる物までのヒビ割れ。
(特に銀枠との合わせ目や金属部分との合わせ目に発生。イヤフォンジャックを1度差しただけでヒビ割れる事も。
�背面ポリカーボネイトに小さなへこみ〜大きなへこみなどが何ヶ所かある。
�正面銀枠とタッチパネルの間からの液晶の光漏れ。
(部屋の電気を真っ暗するとその隙間から光が漏れるのがわかる)
�正面銀枠とタッチパネルの間からの液晶の光漏れはその間に付いているゴムパッキンみたいなのがしっかりついていない。
(その様な端末だと隙間からタッチパネル内側にゴミが浸入してとれなくなる。また内部基盤にも汗や水分が浸入)
�銀枠と背面ポリカーボネイトの合わせ目に指で多少引っかかる程度〜2ミリぐらいまでの段差がある。
�タッチパネルに髪の毛やゴミが製造段階から混入している。
�タッチパネルに16Gや8G関係なく個体差があり、明らかに明るさが全く違う。
(以前問題のあったファームウエアの更新での液晶の黄ばみの解消とはまた別の問題)
�銀色のマナーボタンは接着剤で中のプラ部分に付けられているのですぐに取れやすい。
�端末のドックコネクタが中で歪んでいるためUSBのコネクタが真っ直ぐじゃない。
�カメラ内部に製造段階からゴミ混入。キズなども。
�SIMトレーの差込穴が適当な作りで穴が端の方にズレている物がある。
�スリープボタンがグラグラ動く端末がある。
�マナーボタンがかなり固い、または緩い。
その人に興味が持てるかどうか、その人についていろいろと想像できるかどうか。
そのためには、その人に関する情報が不完全でないといけない。また、不完全だが、完全な状態がうっすらと予感できる程度の情報で、見聞きする側が彼に好奇心を持てるようになっている方がよい。
その人に対する知識を自分で集め、もしくは想像し、勝手に補完するという動作で、彼に感情移入するようになる。
現代美術、映画、音楽、小説、キャラクター…と金を稼ぐ芸術はみんな結局そのモチベーションの上に成り立っている。作家に感情移入するか、登場人物に感情移入するか、俳優に感情移入するか、違いはあれど、結局同じこと。自分の中で誰かを考えている時間の長さ。
* * *
僕は以前、同監督の前作、「ゆれる」を大絶賛した。
どうしてもそれと比較してしまう。
●演技
前作のよさは(というかたいていの映画のよさのひとつは)、
「とてもやりきれない感じと、その後の救われる感じ」だと思う。
ゆれるはさらに、主演俳優の1人の演技が狂っていたので、
より、やりきれなさ、救われた感が強かったのだと思う。
見ていてゾッとする演技、というのを、演技がうまいというのかどうか分からないが、
ゆれるでの演技は、見ていてゾッとする演技だった。
あーこういう人間、こういうしぐさは見たくない!というのがわんさか出てくる。
表情や動きで、見ている人の心拍数を上げるというのは、
やはり並大抵のことではないのだろうと思う。
それは脚本と演出によって発生したものでもあるので、
一概に演者だけが良かったということでもないだろうが、
しかしあの演技なしには成立しないだろうと思う。
と、いうのと、今作を、どうしても比較してしまう。
今作には、そのゾッとする演技もないし、
「やりきれない感じ、救われる感じ」も、薄い。
テレビドラマや、テレビ局制作の映画などに比べたら、
脚本も演出も演技も全然種類が違って、
ある程度楽しめるものではあると思う。
それは、監督のおかげだと思う。
しかし、見ていて心拍数は上がらず(ストーリー的に、ということではない。
まあストーリー的にも少し山谷がない気もあるが)、
前作以上をどうしても期待してしまった僕には、
なんだか物足りなかった。
唯一、今作にも出ている例の役者が刑事二人と喫茶店で渡り合うシーンで、
例の狂った演技。それがよかった。
あれは、それだけを何度も見たい、と思うような、中毒性のある演技だと思う。
(どうやったらああできるのか・・。やはり遺伝子によるものなのか。
全身全霊を傾ける、という。なんだか、
熱心なパンク演奏者が全身で演奏しているようなのにも近いし、
憑依したイタコにも近い。)
映画で、監督に出来ることには限りがある。
いくら演出をしても、結局演じるのは役者。
全部を統制しようとするなら、小説かマンガにするしかない。アニメも自分ひとりでは作れない。
しかし、全部をひとりでやったとしても、ゆれるは作れなかっただろうと思う。
主役を別の役者にした時点で、
ゆれるを超えるもの(同程度のもの)は作れない、ということを、
僕は理解しなければいけないのだと思う。
●脚本
彼女は、今作で、
「前作を公開した後、自分には大した中身がないにもかかわらず、周り(世の中)が何故か自分を持ち上げる現象」を
映画にしたかったそうだ。
彼女は主役の医者で、世の中は医者がいる村の住民だそうだ。
「周りが考える自分」が、「自分が考える自分」を追い越していき、
追いつけなくなってしまった時の(特に有名人が感じる)空虚な感じは、確かに、今作で描かれてはいた。
ただ、それは、前作の
<
「親の世話を自分だけがして、でも弟は東京で自由に遊んで暮らしていることへの苛立ち」
+「とても好きな女性に嫌われてしまってどうすればいいかわからない」
+「でも自分はそんな状況に絶え、ずっとやってきた、という自負がある」
+「なのに弟のせいで全部めちゃくちゃに、しまいにゃ刑務所に入れられることに」
という、全編で描かれる最低最悪の兄の心理状況と、
ラストシーンでほんの一瞬だけ出る、救われる感じのシーン
>
には、
見る人が感情移入できるかどうか、
見終わった後に深く考えさせられるかどうか、
主人公に幸せになって欲しいと願えるかどうか、などの面で到底かなわないと思う。
まあ要するに話がたいしたことないのだと思う。
今の世の中で有名人になる、ということは、
とてもたくさんのリスクがあり、我慢しなければいけないことが随分多い。
それが分かったところで、私の暮らしには何も影響しないのだ。
彼女の描こうとする、「善と悪の境目がはっきりしない、人間というもの」を2時間の話にする時に、
合っている設定と、そうでないものがあるのだと思う。
●次回作は
見る側は気楽だ。
いくらかを払って、映画を見て、よいか悪いか勝手に批評して、
また作れ、と言う。
受身の癖に、文句言い。まあ金を払っているんだからしょうがない。
資本主義では金を稼ぐのに散々ストレスがたまるようになっている。
有名になればなるほど、ストレスがたまる。
このまま、「善と悪の境目がはっきりしない、人間というもの」を、
ややわざとらしめの映像(僕は大好きだが。溶けるアイスクリームの10秒の映像とか、
ボケた老人が新聞紙を洗濯して干している映像とか。)で、
言葉少なめに演出して、という手法をずっと続けていくのだろうか。
僕は続けていって欲しい。三谷幸喜みたいに。
出資する(金だけ出して、勝手なこという)輩の言うことを聞いて、
その個性をなくしてしまうのはやめてほしい。
少なくとも、その個性についている客が、僕も含めて大勢いると思う。
「同じことを2度とできない」という、エンターテイメント界の癌思考にとらわれず、
同じことでもなんでも、作りたいと思ったものをお願いします。
自主制作的といわれようがパクリといわれようが、
本人が自身を持っていればいいと思います。
たとえもうゆれるを超えられなくても、ゆれるはなくならないので、
別にいい。
ゆれる的なものをまた見せてもらえるだけで、充分受け手として幸せだと思う。
たいていの人は、つまらん、という。
連続ドラマと違って、話がすすまないのだ、という。しかしそれは好みの問題だ。
僕には連続ドラマの方がむしろつまらん。
映画とドラマという時点で単純に比較をするものでもないと思うが、
しかし同じ映像作品としてみて、こうも違うか、というほど映像文法が違う。
連続ドラマ、まあテレビ全般に言えることだと思うけど、
とにかくほぼすべての演出が丁寧・わかりやすい・台詞とテロップが多い・説明口調、と至れり尽くせりだ。
過保護といえば過保護、視聴者を置き去りにしないという言い方もあるだろう。
まあその点はすでにいろいろなところでいわれていて、テレビの宿命的な、仕方のない流れだとは思うが、
ただ親切なだけ、ならまだよいのだ。
最近のは、親切を追及するがあまり、つじつまの合わない・リアリティのない演出まで多用する・・。
フィクションとは言え、生身の人間が演じているドラマで、アニメのような演出をするのはいかがなものか。
CGを使えばなんでもできる、ということはないぞ。確かにお金と時間をかければ「ある程度」はできる。しかしそれでも現実には及ばぬ。
そもそもCGは現実にできないことを具現化するのには優れているが、現実にできることを再現するのには優れていない。
CGだけではない、さまざまなその矛盾を、さも当たり前のように受け止めて話を進める役者陣、制作陣、スポンサー陣・・。
こんなのありえない、でも演技はシリアス。いやにならないだろうか。
サスペンス、恋愛、ドキュメンタリーまで矛盾だらけ。作者の下手な嘘だらけ。
そんなに都合よく、特定企業の飲料だけが個人宅の飲み会の席に、しかもラベルが一方向を向いて並ぶことはないのだ。
(それを見た人間が、ああここのこれが飲みたい、と思うか、また下世話な、と思うか。
ドリンクが並んでいる、と思われるか、並べられている、と思われるか。並べられている、と思われた場合、その理由をどう想像させれば効果的か。
そこまで可能性を考えてつくろうとはしないのだ)
僕はそれを静かに受け入れられない。そこまでひっくるめて楽しむ余裕がない。そんなに親切にはなれない。
それでお金をとっているんだろう、そういう作品で給料をもらっているんだろう、プライドや自信はないのか?
大手テレビ局制作の映画を数本みて、たて続けに興ざめだったので、そうでない制作者には申し訳ないと思いつつ、
もうテレビは全員がそうだろうというネガティブスパイラルに入っている。
見る人が、断片的な情報をもとに・説明なしの映像から想像して頭の中で描いたストーリーなりバックグラウンドなり心理状態の方が、
わざわざだれかに親切に説明されてなんとなく理解したものよりも、ずいぶんリアリティがあり、記憶にも残り、感動もする。
察する・自分で考える、ということがどれだけ重要か・・。
すくなくとも誰かの作品を見聞きしていて、
見た人が自然とそういう行為に及べないような場合は、その作品は僕にとってすぐれているとはいえない。
リアリティのない情報ばかりだと、そもそも考えようという気にすらならない。
つい変な意図を察してしまう。
そのリアリティのなさに意味があれば別だが、ないだろう、ただの横着だ。
時間がない、予算がない、やる気がない。やっつけ仕事。
大きな声の台詞で説明せず、小声や表情や動きで説明する。
わかるかわからないか、ぎりぎりのところまで情報を少なくする。
伝えたい情報と、そうでない情報をまぜて伝える。
たしかにわかりづらい作品というのも多い。それはそれで理解できない・受け入れられないということは多々ある。
ただ、「おもしろさ」の一つは、
すぐには意味がわからず、自分で察しようという気にさせておいて、なおかつ意外にすんなりと答えがわかるようなこと、なのでは。
わかる/わからないは人により違うので(わかる人の方がよい・優れている、という風潮もあるがそうではないと思う、単に人により好みがある、というだけのこと)、
作品(作者)の度合いと、こちらの度合いが一致すればするほど、いい映画、ということになる。
茶の味もそうだが、ゆれるも僕の中ではいい映画だった。
40にもなって、いけいけなままの気持ちで、私・輝いてる!いつまでも若くいたいわ・めげちゃだめ・そりゃつらいことだってあるけど・いつでも前向いて・気持ちよく生きていこ!って大バカ野郎が。それをでかでかと顔に書くなよ。車内で日経を開けっ広げに読み、もてない女流作家の男性こきおろしド変態偏愛エッセイをこれまた開けっ広げに。
比べるのも蹟に障るが、まあどうせ社会経験では敵わん。そのカラ元気にも勝てる気がしない。なので負け惜しみだろう、自分にないものへの逆説憧だろう、彼女にだって立派な人生が、とでも。なんと言われようが構わん。否定はするが、まあ価値観の問題なのでこれは個人的なことなのだ理解されなくとも仕方がない。
不良品が多数発生すれば、その原因がキヤノンの用意した部材の品質にあるのか、それとも請負側の使い方にあるのか、両者の間で責任の所在を問う交渉が行われる。請負側が過失を認めれば、不良在庫の費用を負う立場となるために、グレー不良は市場に出回ってしまうのだ。
炭水化物にもいろいろありますが、なかでももっともオススメなのが白いごはん。お米は日本人が昔から食べている主食なだけあって、日本人の体に適した優秀食品。消化がよくて栄養も吸収しやすいのです。そのため、白いごはんで野菜を食べれば代謝がスムーズになり、遅めの夕食でも太ったりする心配がありません。
改正薬事法の検討会に参加後、インターネットでの薬販売規制の動きに関してのコメント
その構造を劇的に変えることは不可能ですから、少しずつ少しずつ変えようとしたら、随分長い年月がかかります。少しずつ変えていっても、現代の文明の終焉までに滑り込みセーフになるのかどうか、私はあまり自信がありません。ただ個人的には、自分と自分の周辺に関しては最大限の努力をしていくつもりです。
人を楽しませるために自分たちの職業で精いっぱい力を尽くすのではなく、それもやるけれど、ほとんどの時間は他人が作ったものを消費することによって楽しもうと思って生きていますね。
それは僕のような年寄りから見ると、非常に不遜なことであるという風に、真面目に作れという風に、力を込めて作れという風に(感じ)、「すべてのものをそこ(作品)に注ぎ込め」と怒り狂っているわけです。だから全体的なモチベーションの低下がこの社会を覆っているんだと思います。
——麻生首相がアニメ・漫画好きと公言されていますが、これをどうお考えになっていますか?
恥ずかしいことだと思います。それはこっそりやればいいことです。
ウォルト・ディズニーとウォルトナインズとの関係は、あの時代にしかありえなかったような非常に濃密な幸せな関係だったと思います。私たちは私たちなりに(そうした幸せな関係を)持っていますが、比較することはできません。1930年代にアニメーションを確立したという彼らの誇りと、それを使って商売をやってきたその後の人間たちとではずいぶん違うんだということです。
私たちは外部依存をしたくない。労働条件の差を利用して映画を作りたいとは思いませんので、何とかして自分たちのリスクで映画を作っていきたいと思っています。
もうすでに引退しているのだと私は思ってます。「みんなの好意で時々仕事をやらせてもらってるんだと思った方がいいな」と思って生きています。
ただ、映画を作るというのは非常にリスクのあることです。むしろリスクを求めて私たちは映画を作っていますので、映画を作り終わるころには本当に力を出し切っています。だから、もう何にもやりたくないのです。「何もできないだろう」と自分で思えるのですね。それで、毎回ああいうこと(「引退する」)を言っていましたが、もうさんざん言いすぎましたので言わないことにしています。
「商業的に成功することは、大して意味がないんだ」と本当は思っています。仕事を続けるために一定の商業的な成果を上げなければなりませんが、それは目的ではありません。
「いったいどこに止まれば良かったのか」というのは、これはずいぶん探しましたが、結局「楽園というものは自分の幼年時代にしかない、幼年時代の記憶の中にだけあるんだ」ということが分かりました。親の庇護(ひご)を受け、多くの問題を知らないわずか数年の間だけれども、その時期だけが楽園になると思うようになるのではないでしょうか。
というわけで、カメラなんて6メガピクセルもありゃ充分で、これで額に掛けて飾って大丈夫な鮮明でノイズのない8×10版の美しい写真が焼けると言ってます。
何かにむかついているとき、第三者を理不尽なやりかたでかつ正当にむかつかせる(店員に無理難題を押し付ける。公務員を詰る)ことで、自らのむかつきをしずめる。俗にうさばらし
何かにむかついているとき、さらなるむかつきを自らに課すことで、それまでのむかつきとすり替える。特に自分に対してむかついている他者への行為として有効。俗に他人の悪口
ただしむかつき自体が何かとの釣り合いで軽減したわけでないので、やがてもとのむかつきに話題が帰着する場合も。
ルー大柴。人生は一度しかない。悔いを残したくないのでとことんやってみる。
鳥海氏。別にデザインや広告に興味はない。むしろ嫌いだった。文字を目指したのは大学入ってから。会社のゆくすえはあまり考えてない。
かずい工房の井上氏。会社社長にしながら、個人印刷を趣味にし、活字に関する論文を投稿し、活字界に影響。各国の活字、見本帳収集も盛んに。
同期の目標って、部署かわるとかプロジェクトやるとか、コンサルとか、本当偉い。つか本気でいってんのかなあんなこと。だとしたら人種がちがう。仕事で目標なんて。
TBゴシック
http://www.hm.com/jp/hm__working.nhtml
こんなでかでかとのせなくてもいいのよ
東京になりたいときには、ひとを集めて、会社もあつめて、それを常に新しく保ち、そのために工事をさかんに行い、新しい形の建物をたくさんつくり、その一方で古くからの街並みや住人も保護せざるふりしつつ保護し、交通網を発達させ、人が一度は行ってみたい場所をつくり、それを放送局が取材し放映することで放送が成り立つようなイメージをつけ…、いやしかしイメージをつけるためには取材をしてもらわなければいけないな。芸能人を連れてくるか、やらせで仕込むか。
私は何も知らない。私が何も知らないということを除いて。私の発言は全て真実ではない。私の発言が真実かどうかに関する発言を覗いて。
漫画の出演者は、完全な創作、仮想だ。映画もアニメも演劇も、演じる人は現実に生きていて、仕事が終われば自分に戻る。生まれも育ちも死も、誰かと同じようにやってくる。漫画は違う。彼らは現実のものではない、が我々は現実のものと似たものとして受け止める。作者は神。漫画の外で役者が役者の責任においてスキャンダルを起こすこともないし、しかし作者がこれを起こそうと思えさえすれば作者の責任のもとにいくらでも自由に起こすことが許される。だが小説は日記だ。作者か、主人公(それは読み手)の日記で、現実とゆうには完全で亡さ過ぎる。
何を作っても、結局誰かの何かと同じになってしまう。同じかどうか、判断する者によって違うが、判断する者は一人の人間のなかにでさえ無数にいるので、結局は全てのものは何かと同じになってしまう。全く、人間は分類することが生業なのか。全く、誰かが必ず何かと一緒の分野に分類しやがるんた。表面的な分類ができないときは、精神論で分類しやがる。あるいは歴史的側面、要素的解釈で分類しやがる。分類分類分類ぶんるいぶんるい…。私は何かと一緒ということに私が気付くと、魔のサイクルに廃っていく。
なんかこうほかにないことをさ、が口癖の、オメガの腕相撲をして、カフスボタンのついた襟の高いシャツをきた、色黒で痩せ型で単髪の、ああ、いけないいけない。いや、いってやりたいよ、おまえはこのへんに掃き棄てるほどよくいる、ありがちなつまらん人間野郎だあすが!って言われてりしちゃってりなをかして。
寺島薬局(ドラッグストア)
ツヴァイ(結婚仲介)
やまや(輸入食品)
タカキュー(紳士服)
オリジン弁当(弁当)
ホーマック(ホームセンター)
ローラアシュレイ(雑貨)
過去に、ゴナというフォントが世の中からなくなったとき、ほぼすべてが新ゴに流れた。石井ゴシックがなくなったときも、セザンヌに流れた。でもセザンヌではやはりものたりなくて、しかたなく31とかで妥協をしていた。するとこぶりなやニューセザンヌが出てきて、そこにまた流れていった。イシイゴシックに、という人もいたかもしれない。
世の中のゴシックは、そのくらいの小さな世界で成り立っている。いままで何億円かのフォントをいくつつくったかしらないが、そのくらいの小さな世界しかつくれていない。その小さな世界にすら仲間入りできずに消えていく奴もいる。
誰かの後釜になるのではなく、いろいろなゴシックから、自分のところへ流れをつくろうとした筑紫や味岡がなは、ある程度成功はしたかもしれないが、101にはなれなかった。101はトヨタであって、自民党であって、ドコモなのだ。
その時に鳴っている音、その時の少し前までに鳴っていた音の、あいているスペースに音を出す。ただし、あきすべてを埋める必要はない。好みに応じて。それをくりかえす。
スペース1.
音の高さのあき。重低音がないとき、ベースをだす。高音がないとき、ハイハットを叩く。
スペース2.
コードにとってのあき。ルート音、ナインス、セブンスなど。
スペース3.
進行上のあき。盛り上がったか、まだか。そろそろエンディングか。ソロの間に一度テーマをはさむか。バースをやる(聞き手、演じ手)の余裕(スペース)はあるか。
スペース4.
音質のあき。ふわりとした音質か、パーカッシブな音質か。あえてスペースのないところに出してみるもよし。楽器を変えるもよし。エフェクトかけるもよし。
スペース5.
リズムのあき。早いフレーズ、おそいフレーズ。
スペース6.
雰囲気、気分のあき。フリーな気分か、ビバップな気分か、メロディアスな気分か。それをすばやく切り替えてみるもよし。しばらくワンパターンでいって、自分であきをつくり、そこにみずからとびこむもよし。誰かにさきにとびこまれることも。
分単位のスペース、秒単位のスペース、いろいろ。あえてスペースをつくる、あえてスペースのないとこにぶつける、いろいろ。聞き手にとってのスペース、演じ手にとってのスペース、いろいろ。
母親の母性本能は強い。子は10ヶ月を母親の胎内で過ごす。そのため母親は、子を、まるで自分の分身のように感じることがあるのだそうだ。何百の卵を産み、しかも産んだ後に受精をするようなものたちでは、はたしてどのようにこの感情が生まれるのか。いわば我々からみれば、排泄、にも近い行為が、彼女たちにとって、人の出産と同じ、母性を実感するための行為になりうるのか。さらに、何百の子を一度にもうけ、どの卵がいつ孵化したのかの記憶も曖昧で、もはや個々の区別が不可能となったような家族の状態で、人でいうところの育児という行為は、成立するのか。そしてそういう状況の違いこそあれ、彼らなりの社会の秩序が今日まで保たれ続けている(ようにみえる)という事実。
メジャーになって、文化になってしまった。
サブカルチャーでできていたことができなくなった。
世の中を笑い飛ばすことができなくなった。
みんなを喜ばせなければいけなくなった。
どう見分ければいいだろうか。
「デザインするのがおもしろくてたまらない。http://www.nhk.or.jp/professional-blog/100/7865.html
生理的に、ずーーーっとやっていられるんですよ。
今でも好きで好きで、趣味感覚でやっているところがあるので、
周りの人に叱られちゃうことがあるくらいです(笑)」
中村さんが楽しそうにウェブの説明をしてくださる姿を前に、
「好きこそものの上手なれ」って本当にそうなのだな、と思う。
ウェブデザインの道を本格的に歩み始めて10年も経っていないのに
すでにウェブデザインで世界中から注目を集めている底力は、
きっと、その「好き」から来ているのだ。
中村さんは、大学院まで建築を学び、その後、建築事務所に勤めていたのだが、
仕事を始めてしばらくすると「自分のやりたいこととは違う」と思い始める。
その当時の自分を「ダメサラリーマンだった」と言い切る。
勤務時間以外の時間に生き甲斐を求め始め、
趣味の延長で、もとから好きだったウェブデザインを独自に始める。
その後、一念発起、
サラリーマンを辞め、ウェブデザイナーの道を歩み始めたのだ。
そもそも、学生時代から夢見てきた建築の道をすべて捨てよう、
と思い切ること自体、きっと勇気のいることだったろう。
それに、いくら好きだからといって、
ウェブデザインで必ず成功するという保証もない。
迷いはすごくあったという中村さんだが、
その決断は、ある日突然できたと言う。
「ウェブの世界に趣味レベルで関わりはじめて、
会社が終わったあとや週末に色々作っていたんですけど。
そっちのほうがすごく面白くなって、
だんだん趣味と仕事の重みが逆転してきたんですよね。
なんて言うのかな、
仕事をしている時間、本業の仕事をしている時間がだんだん、
もったいない時間のように思えてくる時期があって。
『あれ、なんで俺、こんな今の仕事をもったいない時間とか
思っているんだろう』と。
今やっていることが本来の自分の時間じゃない気がしてきて、
自分の本能というか、やりたいことにちょっと忠実にやってみようと、
もったいないと思った瞬間に、決断したんですね。
次の日から、そういう方向に向けて動きだしました」
にしてもしかし、AXISフォントのひらがなは、
真心ブラザーズのまたまた名曲「All I want to say to you」のPVを
ユーフラテスと作りました。曲も歌も素晴らしいですが、
PVもちょっとすごいです。
歌詞などのテロップが入ってない状態で見てほしいと思います。
理由は見るとわかります。PVの企画は、ユーフラテスの佐藤匡、
もちろんディレクションも佐藤匡です。
制作はユーフラテスですが、
慶應大学の佐藤研の現役・OBにも手伝ってもらいました。佐藤 雅彦
All I want to say to you : 作詞・作曲 桜井 秀俊
歌 YO-KING
PV : 制作 ユーフラテス(=EUPH)
CD 佐藤 雅彦
dir 佐藤 匡
よくまあこんだけ似たコード進行の癖に全部曲が違うように書けるな…、と関心しています。さすがです先生。
アレンジというのは、単曲だけで聞くんだったら大して重要じゃないかもしれないが、こうして大量の曲を作っていく上では、大切だと感じています。その点、ギターとドラムとベースだけのバンドは、やっぱりアレンジが似通って、どの曲も同じに聞こえる。バンプオブチキンなんて、全部同じに聞こえるもの僕は。
槇原敬之の場合、ドラムもベースもその他ほぼ全部打ち込みだし、楽器音以外も多様しまくってるので、ねたは尽きないのだろうなあ。にしても全部曲装がしっかりしてるから、聞いていて戸惑わない。この曲はこういうコンセプト、というのがみんなしっかりしている。しかもアルバムごとのカラーもちゃんとあるし。本当関心します。
で、打ち込みではあるのだけど、ピアノとギターだけはほぼ生なので、打ち込みぽくないのですよ。しかもギターといってもただの伴奏ではなくて、ちゃんと小倉氏が真面目に弾いて、たまにソロもとるので。
ただ、最近の(出所後の)は、どうもその、センスが一部変わったといいますか、いい曲ももちろんあるにはあるのだけど、なんだか方向性がはっきりしない曲がたまにあったり、ずいぶん粗い方向の曲があったりと、いまいち手放しでは聞けないんです。いい曲ももちろん大多数なんですがね。なんだか各アルバムのカラーがいまいち自分のなかではっきり塗り分けられない。これはミスチルも同じことが言えるのだけど…。で、自分がしっかり聞かなくなったからかと言うと、そうでもない。他の日本人ポップスはちゃんとアルバムごとに認識できるので。
ぱっと曲だけ聞いて、どのアルバム!って分かったり、アルバム見て、曲が浮かんできたりしないのよね…。
なのでシャッフルに入れてるのはいまのところ逮捕前のまで。そのうち残りもいれてみます。
しかしながら、やはり歌詞に関しては…。まあ、これで退廃的な歌詞ばかりだったらここまでのし上がってないしな…。別にいいんだけどさ。うん。
それから、兼ねてから思っていたが、手洗いの自動水栓は、こちらが石鹸を泡立てているだけだというのに、まだ洗っていないというのに、もうすすごうとしてくる!何とかならないか。
結局故障ではなくて、最近の一眼レフの特性なのだそうだ。F80も、D50?も、とにかくみんなそうなのだそうだ。実際触ってみたがそうだった。マニュアルカメラは、スクリーンの構造?が違う(層が一層?)ので、二重にみえない。
ついでに、内蔵ストロボが僅かに浮いてしまっているのの見積もりをとったが、最高一万と言われたのでやめた。
この間出したレンズの曇り取りは、見積もりは2万だったが、結局1万だった。生産終了品につき、替えのレンズ玉がないので、清掃工賃のみ。カビは完全にはとれなかった。
帰って来て、ストロボの上蓋を空けてみた。ヒンジ部分のプラスチックの止め具が奥に引っ込んでいたので、元に戻したら、ストロボの浮きも直った。簡単なことだった。
ただ、いろいろなところにひびが入っている。F80Sを考えていたが、どうもシャッターボタンが押しにくそうなので、U2にしようかな。高い/マニュアルのカメラは重くて困る。まだデジタルを買う気にならない。
今まで、撮ったフィルムのケースを捨てていないでとってあるので、今度数えてみよう。あとどのくらいでシャッターが寿命だろうか。
道具にお金をかけることと、練習をすることは、どっちが先だろうか。
愛着のある道具を使い続けることと、新しいいい道具を常に使うことは、どっちが得だろうか。
広い背景に小さな被写体をひとつ入れる(例えば草原の象一匹)とき、象を真ん中に持ってくると、主役は象だが、象を真ん中から少し外すと、主役は草原の広さと象の小ささ、という意味自体になる。写したいのは被写体ではなくて、その雰囲気というときには、有効になる。
大学の写真の先生は言っていた。単焦点で撮りなさい。ズームレンズは、被写体との距離を決めるために自分が移動するということをしなくなる。自分で歩いて、画角?を決めなければだめだ。
で、僕は単焦点の次に広角ズームをかった。(広角単焦点は高いので仕方なくズーム)広角はいくら後ずさりしても標準レンズでは無理なものがとれる。狭い部屋とか。その次にマクロの単焦点をかった。これも、僕の持ってた標準レンズでは近づいても近づききれないものが撮れる。望遠というのは、余り興味がない。自分の目で見えないものを撮っても、楽しくない。
自分の目は、だいたい70�くらいのレンズに相当する。50�のレンズは、自分の目よりやや広角なのだ。ただ、その分フィルムの面積が視野より相対的に狭いので、ちょうど見たままが写る、ということになっているのかもしれない。
でも、その見たまま、は意識的に見ているまま、であって、見えているままではない。ということが広角を使ってみてわかった。広角で見ると、周辺視野が全部はいる。周辺視野を中心視野?につめこめるので、遠近感の感覚が麻痺して面白い。広角レンズを覗きながら車に乗ると、体感速度が倍増する。
というわけで、下記のような手順で最適のshuffleプレイリストを作ることに:
◆これで、とりあえずは聞きたい曲が多い(かつ聞きたい曲ばかりではない)shuffleになる。
◆シャッフルしながら聞いていて、アルバムでききたい曲が出てきたら、リスト順で聞けば、アルバムで聞ける。
◆購入したアルバムの追加、細かな曲の削除や追加であれば、その都度shuffleプレイリスト上でやればいい。聞き飽きた曲を削除して、聞きたい曲を追加して、余った容量はnot.my.shuffleからオートフィルで満たす。これを繰り返す。そのうち、not.my.shuffleが厳密な意味でnot.my.shuffleでなくなってくる(not.my.shuffleにもshuffleにも入っている曲が増えてくる)ので、たまにmy.shuffleを更新する。
新しいアルバムを丸ごとシャッフルに入れたいとき:
黒い服に真珠のネックレス。黒いスーツ。紺の半ズボン、黒いポロシャツ。男女5人、子供一人。葬式帰り。横浜で降りました。
葬式の空気はすぐ消えた。変わりに人が沢山乗ってくる。談笑している皆。葬式の空気は消えた。
訳も判らず黒い服を来て、退屈と思っていたが、大人はそれぞれに思うところがあって、せっかくの式を台なしにしてしまったな。申し訳なかった。
次の式は多分堪えきれないだろうな。もう訳も判らず、とはいかない。黒いポロシャツでもいけない。しっかりしたのを買わないといけないな。そんな出費でも、僅かな弔いになれば。
無料でダウンロードできて、全部通して聞けるのは一回だけ。巻き戻しも不可。一回聞くとあとはサビしか聞けなくなる。
パソコンに入ってる曲から、自分の好みを推測して、好きそうな曲を勝手にダウンロードしてくれる。アマゾンみたいに。
CO2と何かを燃料にして何かを出す機関はつくれないのか。葉緑体を改良するとか。ダイヤモンドと水をつくるとか。エネルギー保存的に不可能なのか
地球上の炭素量はこれまで一定だったのだろうか。もしCO2を固体にでもして宇宙に棄てたら、どうなるか。酸素がへるか
人なら声質と喋り方と、服とか仕草とか、まあムード。何を喋ったかなんて重要ではない。音楽も絵画も広告も書体も、対象において最重要は質感、と言いたい。それ以外はその後、質感を把握した後。
なんというか、それなのに、質感は社会で軽視されすぎていると、質感の経済学は発展していないし、うちの会社で言ったって、それを扱うのは一仕事にせいぜい一人だと、そういうことです
ヤフーの広告枠には、それぞれ名前がついている。例えば、ヤフーのトップの右側、ニュース欄の上方にある広告は、「ブランドパネル」、ニュースページの中央上方、横長の広告は、小さいものは「ノースバナー」(上=北=North)、大きいものは「スーパーバナー」といった感じ。ヤフーの「広告掲載について」からたどれば、詳細資料が見られる。
最近、このブランドパネルやスーパーバナーで、長尺のCM素材をそのまま流しているものがある。(そもそも、この2つの枠は、ヤフーの広告枠の中でも最も多くの人に見られる広告枠で、効果が期待される分、価格も人気も高い) パイレーツオブカリビアン、ソフトバンク、サントリーアワーズ、エクスリムとかがそうだ。
これまで、この枠では、数秒のオリジナルFlash素材を流していた。というか現在でもそれが主流だろう。大抵、簡単なアニメーション。場合によっては、2カットぐらいの簡単なものだ。その中で、CMをそのまま流されるとどうもつい目が留まる。
なぜそれに反応するのだろうか。WEB広告の中で異質なものだからか。テレビで見慣れた構成の映像だからか。それとも(一応、他のWEB広告素材に比べれば)"作りこまれた"映像だから、映像それ自体に力があるのか。多分全てだろう。
もちろん、今まで、WEB広告用にスタジオを借りてカメラマンがビデオを回してタレントを撮るなんてことはなかったし、現在でもない。こういう素材を流すためにはCM制作(とその放映)をすることが前提だ。相当予算があるということだ。誰にでもできる広告ではない。WEBのためだけにこういう素材を作ろうとしても、(既に作りこまれた映像素材が用意されている映画の広告は別として)多分媒体費より制作費が高くつくことになる。
そう考えると、金がある企業の手抜きWEB広告とも思えてくる。でもそれが結局出来も見栄えもいい。困ったものだ。
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現在でも、WEB広告のあり方として、「自社サイトへの誘引」を第一の目的にしている企業は多い。そもそもWEB広告の始まりは単純なテキストリンクだった訳で、WEB広告は(今でも一部の人にとっては)、あくまで「リンク」、「魅力的な素材で、そこをくりっくしたくなるようなリンク」なのだ。
そういう人にとっては、WEB-CM広告は、クリックしたくなるかどうか、自社サイトに誘引できるかどうかも分からない眉唾物に見えるのかもしれない。
ただ、自社サイトへ来たからといって何になるのだ、という問題もある。自社サイトをそんなに隅々までみてもらうようにするためには、CMを作る以上の努力と金がいるんじゃないの?(まあでもごめん、媒体費はかからないやね)そして、そこまでして知らしめたい情報とは何か?商品を買うにあたって、そんな大事な、有用な情報が果たしておたくにはあるのか?商品のことを知って、いいな、と思って、店に行き、商品を買ってもらえばそれで済む話なのではないか?(店を持たない通販なら話は別)「いいな」と思わせるのに膨大な情報を伝えなければいけないというのは、コミュニケーションの失敗か、商品自体に魅力がないか、どちらかではないのか。
問題は、広告の役割をどう設定するかにある。その商品の存在を知らせ、その商品のよさを知らせることを広告の役割とするなら、WEB-CM広告は正しい。というか、僕はそれがほとんどの広告の役割だと思うけどな。商品の存在とよさを、いかに深く知らせることができるか(情報の深度ではなく、記憶の深度として)が、広告がうまいかへたかの分かれ目ではなのかな。
まあいい。結局全て金だ。
トレンディードラマなら、幾つかの展開案から一つ選んで無難にストーリーをつくれば問題ないが、コメディーとなると、作家の発想に頼る部分が大きくなるのか。
ナースのお仕事や古畑のように、ちょっと疲弊したくらいで完結してくれると、見るがわとしては有り難いのだがね。
にしてもDVDは高い。二万円もする。
すごく自信があるか。それをやらないと生きていけないほどそれをやりたいか
忙しくても我慢できるか。社会の地位やお金がなくてもそれをやりたいか
デザインの潮流は、コンセプトや考え方や、戦略やしくみで、ディティールはメインストリームではない。でも僕はディティールが好きだ。ただしそれをしなくても死なないし、それで勝つ自信がない。
きれいだと思ってそれを写真にとって現像してみて、やっぱりきれいだと思う。たまにすごくいい写真だとおもうのがとれる。ノルのロゴもそう。これが次はいいかな、あれもいいなと思ってメモして、たまの休みにちゃちゃっと作ってアップして、やっぱりいいなと思う。それでいいのでは?
広告枠を売るために視聴率をあげるための番組をつくる。それがすべてはおかしいという。なら自主制作しかなくなる。結局好きなもので稼ぐためには好きだからという以上の理由で努力せざるをえない。
・ああ。こんな時間におきていると大変なことになる。
・とうとう冷房をつけて寝るようになってしまった。電車には蚊もいるし。キタ最悪の季節夏。
・懸案事項であったマランツのCDP。結局CD7300で落ち着く。生産終了品をビックカメラで3万弱で。ただ,どうもやはりピックアップが弱かったので,サポートに頼んで買ってすぐピックアップ交換。それからは特に異常はない気がするが。
・3万弱,といったときは,3万+αなのか,3万-αなのか。前者のような気もするが,確信がない。調べるほどでもなし。
・ラーメンズが9月に日本語学校のCDアルバムをだすと。
・ダホのライブ
・Firefoxは使いよいのだが,どうもたまに落ちる&起動がやはり遅い。
・キャー,と叫ぶのはほぼ女性だが,キャーはイヤーの変形か?なぜキの子音による開拗音が付加されたのか。なぜヤメテーの場合はキャメテーにならないのか。
・容姿と性格と家柄の関係は,忙しさとやりがいと収入の関係に似ているだろうか。似ていたとしたら,そのどちらにも効く解法があるだろうか。
・そもそも異性と仕事は似ているだろうか。就職を恋愛にたとえることがあるらしいが,恋愛を就職にたとえることはないな。というかなんでもかんでもたとえるのはよくない。松尾健太郎もそう言っている。
・ノルに手を掛けたいが,どうーもやろうとするととたんに時間がなくなる。本当だ。
・転職熱
・引越し熱
・地上波デジタル時代に突入した我が家のリビングは,テレビは薄いが,それでどうなると言う訳ではなかった。サッカーのタイミングにあわせて,ブラウン管がうつらなくなり,別に興味もないのにアナログが終了するからという理由で液晶を買う羽目になり,買ったというだけ。チャンネルの切り替わりが異常に遅い。私の携帯の如く,である。
・やはり,でも,画面はきれい。ハイビジョン制作の番組とかCMの白バックロゴなんて,PCのフラッシュの画面と見紛う。それはもう,すごいきれいだよ。