July 14, 2009

ディア・ドクター

方々で話題になっている(のか?)「ディア・ドクター」。
先週見に行ったのでその感想を書く。かなり散漫です。

* * *

僕は以前、同監督の前作、「ゆれる」を大絶賛した。
どうしてもそれと比較してしまう。

●演技

前作のよさは(というかたいていの映画のよさのひとつは)、
「とてもやりきれない感じと、その後の救われる感じ」だと思う。
ゆれるはさらに、主演俳優の1人の演技が狂っていたので、
より、やりきれなさ、救われた感が強かったのだと思う。

見ていてゾッとする演技、というのを、演技がうまいというのかどうか分からないが、
ゆれるでの演技は、見ていてゾッとする演技だった。
あーこういう人間、こういうしぐさは見たくない!というのがわんさか出てくる。
表情や動きで、見ている人の心拍数を上げるというのは、
やはり並大抵のことではないのだろうと思う。

それは脚本と演出によって発生したものでもあるので、
一概に演者だけが良かったということでもないだろうが、
しかしあの演技なしには成立しないだろうと思う。

と、いうのと、今作を、どうしても比較してしまう。
今作には、そのゾッとする演技もないし、
「やりきれない感じ、救われる感じ」も、薄い。

テレビドラマや、テレビ局制作の映画などに比べたら、
脚本も演出も演技も全然種類が違って、
ある程度楽しめるものではあると思う。
それは、監督のおかげだと思う。

しかし、見ていて心拍数は上がらず(ストーリー的に、ということではない。
まあストーリー的にも少し山谷がない気もあるが)、
前作以上をどうしても期待してしまった僕には、
なんだか物足りなかった。

唯一、今作にも出ている例の役者が刑事二人と喫茶店で渡り合うシーンで、
例の狂った演技。それがよかった。
あれは、それだけを何度も見たい、と思うような、中毒性のある演技だと思う。
(どうやったらああできるのか・・。やはり遺伝子によるものなのか。
全身全霊を傾ける、という。なんだか、
熱心なパンク演奏者が全身で演奏しているようなのにも近いし、
憑依したイタコにも近い。)

映画で、監督に出来ることには限りがある。
いくら演出をしても、結局演じるのは役者。
全部を統制しようとするなら、小説かマンガにするしかない。アニメも自分ひとりでは作れない。
しかし、全部をひとりでやったとしても、ゆれるは作れなかっただろうと思う。

主役を別の役者にした時点で、
ゆれるを超えるもの(同程度のもの)は作れない、ということを、
僕は理解しなければいけないのだと思う。

●脚本

彼女は、今作で、
「前作を公開した後、自分には大した中身がないにもかかわらず、周り(世の中)が何故か自分を持ち上げる現象」を
映画にしたかったそうだ。
彼女は主役の医者で、世の中は医者がいる村の住民だそうだ。
「周りが考える自分」が、「自分が考える自分」を追い越していき、
追いつけなくなってしまった時の(特に有名人が感じる)空虚な感じは、確かに、今作で描かれてはいた。

ただ、それは、前作の

「親の世話を自分だけがして、でも弟は東京で自由に遊んで暮らしていることへの苛立ち」
+「とても好きな女性に嫌われてしまってどうすればいいかわからない」
+「でも自分はそんな状況に絶え、ずっとやってきた、という自負がある」
+「なのに弟のせいで全部めちゃくちゃに、しまいにゃ刑務所に入れられることに」
という、全編で描かれる最低最悪の兄の心理状況と、
ラストシーンでほんの一瞬だけ出る、救われる感じのシーン

には、
見る人が感情移入できるかどうか、
見終わった後に深く考えさせられるかどうか、
主人公に幸せになって欲しいと願えるかどうか、などの面で到底かなわないと思う。
まあ要するに話がたいしたことないのだと思う。

今の世の中で有名人になる、ということは、
とてもたくさんのリスクがあり、我慢しなければいけないことが随分多い。
それが分かったところで、私の暮らしには何も影響しないのだ。

彼女の描こうとする、「善と悪の境目がはっきりしない、人間というもの」を2時間の話にする時に、
合っている設定と、そうでないものがあるのだと思う。

●次回作は

見る側は気楽だ。
いくらかを払って、映画を見て、よいか悪いか勝手に批評して、
また作れ、と言う。
受身の癖に、文句言い。まあ金を払っているんだからしょうがない。
資本主義では金を稼ぐのに散々ストレスがたまるようになっている。
有名になればなるほど、ストレスがたまる。


このまま、「善と悪の境目がはっきりしない、人間というもの」を、
ややわざとらしめの映像(僕は大好きだが。溶けるアイスクリームの10秒の映像とか、
ボケた老人が新聞紙を洗濯して干している映像とか。)で、
言葉少なめに演出して、という手法をずっと続けていくのだろうか。

僕は続けていって欲しい。三谷幸喜みたいに。
出資する(金だけ出して、勝手なこという)輩の言うことを聞いて、
その個性をなくしてしまうのはやめてほしい。
少なくとも、その個性についている客が、僕も含めて大勢いると思う。

「同じことを2度とできない」という、エンターテイメント界の癌思考にとらわれず、
同じことでもなんでも、作りたいと思ったものをお願いします。
自主制作的といわれようがパクリといわれようが、
本人が自身を持っていればいいと思います。

たとえもうゆれるを超えられなくても、ゆれるはなくならないので、
別にいい。
ゆれる的なものをまた見せてもらえるだけで、充分受け手として幸せだと思う。

No comments: